カイコによる新生物実験(本書「カイコの実験単へようこそ」の参考文献2)を一部改変し転載した。文中に示した「ステージ〇〇」は実験 22 の図.2の図中の番号と一致する。)
初期発生の過程で外胚葉と中胚葉とが形成されると,その分化とそれにともなう形態形成によって各種の幼虫器官が形成される。胚葉形成が終わると,休眠卵では通常の胚発生を停止する休眠期に入るので,形態形成は休眠が覚醒するまでみられない。一方の非休眠卵では胚葉形成に引き続いて形態形成が行われる。休眠卵と非休眠卵の胚発育を比べると,細かい点を除けば,休眠卵の胚発育の過程の一部が省略されたものが非休眠卵の胚発生といえる(実験22 表1 参照)。
a) 前休眠期
産卵後の卵を 25℃に保護すると,40 時間目ごろには休眠胚の形がほとんどできあがる。さじ形期(ステージ 7)とよばれる発育段階がこの時期で,頭葉以外の部分はほとんど同じ幅になるが,胴部と尾節との識別ができるようになる。こけし形期 (ステージ 6) からこのさじ形期までの発育経過は,胚子の休眠に先行する過程であって前休眠期の一部である。
b) 休眠期
前休眠期が終わると休眠の過程が進み,産卵後 2 週間を経過すると完全な休眠に入る。休眠期は I 期 (ステージ 8) と II 期 (ステージ 9) に分けられるが,これらの時期は,胚子の外部形態ではなくて卵内の状態の変化によって特徴づけられる。すなわち前休眠期が終わってからは,胚子の形態的な変化はほとんどみられないが,休眠 I 期になると胚子は移動して卵の中心部に位置し,卵黄細胞の中に埋まった状態になる。卵黄細胞はステージ4 と 5 の時期に卵黄顆粒と卵中に残っていた核が細胞膜で囲まれ,形成されたものである。休眠前には卵の全域にみられた卵黄細胞が卵の周辺部に移動し,卵の中央部には卵黄のない液質の部分(液腔)ができる(図.1)。また,休眠に入ってまもない卵から胚子を生体で取り出すと,胚子は独立した卵黄細胞によって取り囲まれてみえる。
産卵後 2ヵ月を経過すると,卵の中央部の液腔は休眠に入った頃の卵のものよりも大きくなり,また,生体解剖して卵黄細胞をみると遊離したものはほとんど見られない。このような状態になったものが休眠 II 期である。
c) 越冬期
この時期に休眠卵を後述するような冷蔵処理をしても,すぐには胚子の外部形態は休眠期の頃に比べてまだ顕著な変化はみられない。しかし胚子は徐々に休眠から離脱しはじめる。冷蔵(低温)期間が続くと胚子は次第に活性化し,卵を低温から 25℃に移すと胚発育を再開するようになる。休眠期に続いて,卵の活性化が進む期間が越冬期で,越冬 I 期(ステージ 10),越冬 II 期(ステージ 11),越冬 III 期(ステージ 12)および越冬 IV 期(ステージ 13)に分けられる。
越冬 I 期および越冬 II 期の胚子は,形態によって休眠期の胚子と区別することは難しいが,これらの時期に卵黄がほとんど無定形の集団になっていたり,あるいは卵黄細胞と無定形集塊とが結合している特徴がみられる。
越冬 II 期を過ぎると,胚子の形態的な変化がいくらか認められるようになる。すなわち,胸節の中胚葉塊が他の体節のものに比べていくらか大きくなる。これが越冬 IV 期に進むと中胚葉塊の大きさの差が明らかになる。また,越冬 II 期を過ぎた卵は活性化がかなり進んでいるので,卵を胚発育に適した室温などに保護すると 2~3 週間で孵化する。
d) 臨界期
臨界期は幼虫器官の形成が始まる前の発育段階で,この時期になると越冬期と比べて発育にともなう胚子の形態的変化がより明らかになる。臨界期は臨界 I 期(ステージ 14)と臨界 II 期(ステージ 15)に分けられる(図.2)。臨界 I 期の胚子は頭葉が開いて大きくなり,胚子の形が細長くなる。中胚葉塊は左右にひろがり体の側端にまで達する。臨界 I 期の胚子が少し発育すると,頭葉が十分に開くので,頭葉から胸部部分はイチョウの葉のような形になる。この発育段階が臨界 II 期といわれている。
休眠卵を 25℃程度の室温に保護(放置)し続けても決して休眠から覚醒することはなく,たとえ1年間放置していても幼虫は孵化してこない(図. 3A)。野外の昆虫では休眠は越冬などのために獲得した現象であり(コラム3参照),これらの昆虫では,冬と春の季節の変化を経験することにより休眠が覚醒する。カイコの休眠卵の場合も同じように,一定期間の低温(5℃〜7.5程度)に保護することにより休眠が覚醒する。たとえば,産卵後に室温(25℃程度)に 2 日保護し,5℃に移し,2ヶ月以上冷蔵を続け,その後室温の戻すとほとんどの休眠卵が覚醒し,幼虫が孵化する(図. 3B)。しかし,冷蔵期間が6ヶ月を過ぎると孵化率が悪くなる。一方,産卵後に室温で 30 日程度保護した場合では,十分な孵化率を望むなら 5℃の冷蔵期間は3ヵ月程度が必要となる(図. 3C)。言い換えると,産卵後室温に 30 日程度保護した場合では,休眠卵の長期間な保存が可能になる。この冷蔵期間中には,休眠中の能動的な生理的変化として知られる「休眠間発育」が進行する。
休眠卵を人工的に非休眠化するさまざま方法が実験的に成功している。そのうち,浸酸処理(塩酸処理)は,大正時代から養蚕業の現場で実用化されている。浸酸処理は大きく2つの方法があり,それぞれ即時浸酸法と冷蔵浸酸法と呼ばれる。下記にその概要を紹介するが,いずれの方法も比重計で厳密に濃度を調整した高濃度の塩酸液に一定時間漬け,その後,水洗と乾燥の手順をたどる。塩酸液に終濃度が 2~3%になるようにホルマリンを添加しておくと,塩酸処理中に卵が産卵台紙から剥がれにくくなる。また浸酸前に 2 ~3%ホルマリン液に産卵台紙を浸し,乾かしてから浸酸してもよい。
(a) 即時浸酸法(図. 3D):産卵後 20 ~24 時間の休眠を開始しようとしている卵を処理し,休眠を回避すると考えられる方法であり,加温即時浸酸と常温即時浸酸がある。
加温即時浸酸:産卵後 20 ~24 時間の卵を15℃で比重 1.075 に調整した塩酸液を 46℃に加温し,その中に 5 分間漬け,流水で洗浄したのち乾燥させる。
常温即時浸酸:産卵後 20 ~24 時間の卵を15℃で比重 1.110 に調整した塩酸液を室温 (25℃) で 60 ~ 90 分漬け,流水で洗浄したのち乾燥させる。
(b) 冷蔵浸酸法(図. 3E):産卵後 2 日に 5℃に移し,30 日以上冷蔵後に塩酸液(15℃で比重 1.110)中に 48℃で 5 分間浸漬し,流水で洗浄したのち乾燥させる。冷蔵浸酸法は,冷蔵期間が休眠覚醒には不十分で短いところをこの処理により卵を活性化させると考えられている。
(高濃度の塩酸を使用するため,指導者のもと取り扱いには十分気をつけてください。図. 4 には「塩酸液の調製方法」に関して,東京農工大学農学部蚕学研究室の小林 加奈さんが在学中に記した直筆の実験ノート(PDF)を掲載している。)
1. 3 ~ 6 時間交尾したメス成虫を割愛後,蛾輪に入れ一晩産卵させる(図. 5A, B)。即時浸酸において,高い孵化率を望む場合は厳密に産卵後 20 ~24 時間の卵を採卵した方がよい。そのために,交尾させたメス成虫をそのまま一晩冷蔵(4℃程度)し,翌日室温に戻す。そうするとメス成虫は 1~3 時間程度で一斉に産卵する。
2. 産卵後 20 ~24 時間経過した卵を産卵台紙ごとバットに移す(図. 5C)。産卵後30時間以上になると卵が着色し始める。卵が着色すると浸酸しても休眠回避の効果は無くなる(孵化しなくなる)ので注意すること。
3. 塩酸液(15℃で比重 1.110 に調整したもの)をバットに加える(図. 5D)。
4. 塩酸液の液温を温度計で確認し,液温が 24℃なら 60 ~100 分, 27℃なら 60 ~80 分,29℃なら 40 ~ 50 分を目安に浸酸時間を決め,浸酸を行う(図. 5E)。
5. 塩酸液を元のビンに戻して(図. 5F),卵を流水中に置く(図. 5G)。流水中で 20 分から 3 時間程度洗浄する(図. 5H)。
6. 産卵台紙を洗濯物を干すように風乾する(図. 5I)。このとき扇風機を利用しても良い。乾燥が不十分な場合は,孵化率が悪くなることがあるので注意する。
7. 実験1に記載されているように卵を保護し,孵化を待つ。
参考文献:蚕糸・昆虫バイオテック 84 (2), 99-118, 2015.