実験1. 膿病への対処方法

(ナショナルバイオリソースプロジェクト (NBRP) 「カイコ」の発行する情報誌「ニュースレター"おかいこさま"No.34, p.2 ~ 3 (2016) を一部改変し転載しました。)

 

 

「カイコ」の病気(膿病)

─九州大学で 2015 年発生した事例から─

 

九州大学大学院農学研究院 藤井 告

 

 カイコに限らず,生物材料は時として病気で大きな被害を受け,予定していた実験が出来なかったり,得られたデータの振れが大きくなり再実験を余儀なくされたりすることがあります。NBRP カイコの中核機関である九州大学では 2015 年の春蚕期(5月)に膿病と呼ばれるカイコのウィルス病が大発生しました。あってはならぬ事故でスタッフ一同緊張した年でした。しかし,バックアップしていた卵を鹿児島県の指宿市にある隔離蚕室で飼育すること,新たな病蚕対策を講じることによって,何とか全ての系統を失うことなく維持することができました。一旦病気が発生すると被害が継続することが多いのですが,6月以降の飼育では消毒体制の強化により病蚕を根絶することが出来ました。一般の読者の方はもちろん,カイコを教材や実験材料として扱ったことのある方でも膿病を見たことがないかもしれません。今回は膿病について紹介します。   

 

膿病とは

 膿病という病名は,罹患したカイコが膿みのような白い体液を出して死亡することに由来します(通常,カイコの体液は透明)(実験2,図1参照)。白濁した体液内や体の組織には顕微鏡で診ると,多角体と呼ばれるウィルスが大量に詰まった構造体が認められます(3章,294 ページ参照)。健康なカイコは桑のある場所に留まっているのですが,病気に侵されたカイコは徘徊するようになります。病状が進んだ幼虫の皮膚は破れやすく,体液が流れ出します。その結果,桑の表面が病原である多角体で汚染されます。病気に罹っていなかった健康なカイコが,ウィルスの詰まった多角体の付いた葉を食べると,腸内のアルカリ性の環境下において多角体が溶解して腸内にウィルスが放出されます。最終的には全身の細胞に伝わり,感染個体は死亡します。それと同時に膨大な量の多角体が形成され,次々に感染が進みます。 

 

ホルマリン消毒は万全ではない!

  それでは膿病をどのように防げば良いのでしょうか? 先程,多角体という構造体の中にウィルスが入っているとお話をしました。実は,その構造体は極めて安定で,中に入ったウィルスは何年も生きており,カイコに食べられる機会をじっと待っています。膿病の対策を含めて,古くからカイコを飼育する道具や室内の消毒にはホルマリンが使われてきました。一方,ホルマリン散布を徹底しても膿病を根絶できないという養蚕農家の声もありました。そのような疑問に答えて研究が行われた結果,ホルマリンで処理された多角体は一旦アルカリ環境下で溶解しなくなるという効果を発揮するものの,時間の経過とともに再びアルカリ環境下で溶解しうることが指摘されました(新田・渡辺,1984)。しかし,ホルマリンは安価で古くから様々な病気に有効ということで使用が続いていました。九州大学でもカイコの病気予防はホルマリン消毒一辺倒でした。

 

膿病対策の救世主

 新田・渡辺(1984)の指摘からわかるように,膿病からカイコを守るにはウィルスを保護している多角体を徹底的に破壊する必要があります。この点に効果のある消毒液が蚕業技術研究所で近年開発されました(野沢・城田,2012)。殺菌効果のある次亜塩素酸に消毒液をアルカリ性にするために炭酸ナトリウムと防錆剤を加えるという組成です(以降新薬と呼びます)(図1)。九州大学では膿病が大流行して以降,従来のホルマリン消毒の前に蚕室へ新薬を散布するようにしました。また,飼育期間中は毎日蚕室の床を新薬で消毒しました。その結果,以降の飼育では膿病に罹患したカイコは皆無となりました。それだけではありません。九州大学ではカイコの系統を凍結保存する技術を進めており,年間を通じて生殖巣の摘出および移植実験を行なっています。新薬を使うようになってから,移植実験後の致死幼虫が格段に減少しました。新薬によって蚕室中の病原体密度が低下し,手術で弱ったカイコへのリスクが軽減したと考えられます。 

 

卵面消毒もしっかり

 カイコを病気から守るためには,飼育室や道具を消毒すると同時にカイコの卵を消毒することも重要です。カイコが羽化して交尾採卵が始まるころには蚕室は極めて汚れた状態にあります。卵は厚い紙(産卵台紙)に産卵させますが,産卵台紙は蚕室内に蓄積した見えない病原体(膿病の多角体の他,カビや細菌等)で汚染されているだけでなく,鱗粉や雌蛾の排泄物も付着しています。そのまま卵を孵化させると,蚕室は消毒されていたとしても孵化したカイコはいきなり汚染された環境に遭遇することになります。それを防ぐためには卵を台紙ごと2 3%のホルマリン液に浸します。卵がはがれてしまうのではないかと思うかもしれませんが,その心配は不要です。ホルマリン処理の後に流水で洗うことで,台紙表面をより綺麗にすることができます。産卵時に雌が卵表面に分泌した膠着物質がホルマリン処理で硬化する結果,乾燥後には逆に剥がれ落ちにくくなります。

 

膿病からの贈り物?

 カイコを殺してしまう恐ろしい膿病ですが,この病気に関する研究から発展している学問分野があります。研究のシーズは色々な所にあるものです。

 

1)昆虫工場への利用

 膿病の原因となるウィルス(バキュロウィルスという仲間)はカイコ体内で短期間に大増殖し,それによってカイコは死に至ります。これ自身は大変困ったことです。しかし,これを逆手にとって,ウィルスの増殖性は残しつつ,ウィルスの中身を改変し,人間にとって有用なタンパク質を厄介者のウィルスに作らせようという研究が進みました。現在では,ネコの風邪薬や,インターフェロンを作り出す技術が確立され,それらは市販されています。改変したウィルスを利用してカイコ体内で有用物質を生産することを昆虫工場と呼んでいます(詳細は“おかいこさま”33号を参照)(3章,290 ページ・コラム12参照)。

 

2)カイコの徘徊はウィルスの操作

 膿病に罹ったカイコは徘徊するようになると紹介しました。東京大学のグループの研究から,この徘徊行動はウィルスがカイコの脳に感染し,正常な脳の働きが阻害されたためであることが解っています。つまり,カイコは健康であれば餌のある場所から動き回ることがないのですが,ウィルスに侵されると徘徊します。我々は動き回るカイコに恨みを持っていたのですが,その行動はウィルスに操作されていたのです。そういえば,北海道や岐阜県等で森林害虫であるマイマイガという蛾が,膿病と同じ仲間のバキュロウィルスの流行で大量に死ぬ例が新聞等で報道されていました。感染個体は高い場所に上って枝や樹皮にぶら下がった状態で死亡すると言います。これらのウィルスによる行動操作は,ウィルスを環境中に撒き散らし,病気を流行させる役割があると考えられます。

 

まとめ

 膿病被害はカイコを扱っている他の研究室でも散発的に見られるようです。もし飼育しているカイコが動き回って白濁した体液を流しながら溶けて死亡するようなことがあった時には,まずはここで紹介したアルカリ性の消毒液「新薬」を使用されることをお勧めします。

 

参考文献

新田 実,渡部 仁(1984) ホルマリン処理によるカイコ核多角体の変性 日蚕雑 53146-150.

野澤瑞佳,代田丈志(2012) 食品添加物から構成される養蚕用除菌洗浄剤の開発 蚕糸昆虫バイオテック81213-220.

 

おまけ:「新薬」(消毒液)の調製と消毒の手順

(信州大学繊維学部応用生物科学科 塩見研究室で実際に行っている手順です。)

 

1. 本消毒液は,膿病のみならず細菌や糸状菌類にも効果があると考えられます。この消毒液で飼育室とその周辺を消毒するとともに飼育容器などをこの消毒液に漬けて消毒すると効果的です。

 

2. 上記の図.1 にしたがい消毒液を調製します。これらの薬品はどのようなメーカーのものでも結構です。散布量に応じて消毒液の調製量を決定します。10 m2 程度の部屋と飼育容器なら 10L も調製すれば十分です。散布には,背負い式動噴やスプレーを使用し,飼育室内にまんべんなく散布します。本消毒液の毒性は食品添加物レベルですが,散布の際には保護メガネ,カッパ,長靴,マスクを着用し,安全に配慮してください。

 

3. 飼育室に設置されている冷蔵庫などの電気機器は消毒液が大量にかからないようにビニール袋などで包むか,移動可能ならば外に出しておいた方が良いでしょう。

 

4. インキュベータでカイコを飼育している場合には,インキュベータの中も汚染されている可能性があります。インキュベータ内に消毒液を直接散布するか消毒液を布に浸み込ませて拭いてください。 

 

5. 薬液散布後,消毒効果が得られるまでの時間は 30分もあれば十分と考えられます。散布後すぐに入室しても OK です。

 

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